タイ麻薬撲滅コンサート
タイ山岳地帯 少数民族 ラフ族
ラフ族の青年リーダー、ダイエ・セリー氏の要請によりガリンペイロのタイツアーが実現した。そこで今回の演奏旅行の様子を皆様にも紹介し、ラフ族について歴史から現在抱える問題までを考察していきたい。前半は文献で調べたもの、後半は私達の体験記を寄せた。
起源
ラフ族はチベット高原を起源に何世紀も経て南下してきたと言われている。具体的には中国、ビルマ(ミャンマー)、ラオス、タイ、ベトナムに移住していった。 文献を紐解いてみよう。日中共同出版の「雲南の少数民族」によると、ラフ族は中国雲南省の少数民族の一つに数えられ(24の民族がある)ラフとは自称であり「ラ」とは虎の事で、「フ」とは火の側で香りが立ち昇るまで炙る事を指す。その為にラフ族は「虎狩り民族」と言われている。またラフ族は中国の古代羌人(きょうじん)の系統に属するとされ、ラフをはじめ幾つかの羌語族は「昆」「昆明」と称された。唐、宋代にラフ族は「南詔」「大理」封建領主政権の統治下に置かれた。10世紀以降、大規模な南下を行い次第に雲南へ。明、清代には大小の土司を通じて統治が強化された。とある。そしてラフ族には三つの支系がある。ラフナ(黒ラフ)、ラフシ(黄ラフ)、ラフプ(白ラフ)があり、旧中国にあってはロヘイ、クツオン、シャクツオンと称されていた。このグループは社会歴史、経済形態、言語、風俗習慣は基本的に一致し、方言がやや異なるだけである。もう一つの忘れてはならない支系が苦聡人である
自称 他称
グーツオ ヘイクツオン
ラフ ファンクツオン
しかし本書ではクツオン人はラフに含まないとされていた。
言語
ラフ語は、シナ=チベット語系チベット=ビルマ語族イ語支に属する。
歴史
「世界の民族と生活⑫」には次のように記されている。
ラフ族もアカ族も、もとはチベットに住んでいた民族で、非常に誇り高く優れた狩猟の腕を持っている事で知られる。長い間、中国人と戦った末、大半の人々はやむを得ずにビルマやタイへと移住していった。現在、中国と東南アジア諸国に住むラフ族の数は約30万人と推測されている。(本書は1981年発行)中国に住んでいるラフ族はアカ、リス、ヤオ族の村のすぐ側に村を造っている。昔からラフ族はケシを大量に栽培してきた。しかし、主として痛み止めや治療にアヘンを使っているアカ族とは対照的に、アヘン中毒に侵されているラフ族は非常に少ない。またラフ族は半定住の生活をしている。村の周囲の森林を焼き払って畑を作っているが、その土地に作物が出来なくなると村ごと別の場所に移動して新しい村を造る。中国との関係は本書にも記されている。中国政府は1953年にラフ族の自治区を設けた。それ以後、低地の人々との交流が盛んに行われる様になり、その結果ラフ族の間にも自然現象と結びついた様々な神に対する信仰が定着しつつある。との事である。資料を探すうちに面白い文献を見つけた。鳥越憲三郎の「原弥生人の渡来」である。本書では、古くは雲南に幾つもの倭族の王国があったとし、その倭族の興亡の歴史の中で倭族たちは各河川を通じて民族移動を繰り返した。と唱え、そして揚子江を下った一群の中から日本列島にまで渡来したのが弥生文化をもたらした倭人であった。という証明に取り組んでいる。その続編といえる文献も見つけることが出来た。「雲南からの道」~日本人のルーツを探る~である。雲南の少数民族と日本人の祖先が同じであるという新説を唱えている。(昭和58年発行)稲作を伴って日本列島に渡来した日本人は古くは倭人と呼ばれたが、その倭人の故郷は何処であったのだろうか?「史記」や「漢書」を紐解いてみると紀元前の揚子江上流域には漢民族とは異なる幾つもの倭人の国名がみられる(昆
明、夜郎など)。彼らは後に亡国の民として四散した。日本人と祖先を同じくし、文化的特性(稲作と高床式建物)を共有する彼らを「倭族」の名のもとに捉え、倭族が元は雲南の高原盆地に発祥したとみる。という新説である。 フィールドワークがなされたのは昭和58年で、筆者は次のように振り返っている。辺境の地であった雲南ではあるが、高度な中国文化の影響を受けて大きく変容し、ことに文化大革命によって倭族たちの風俗習慣は根こそぎに破壊されている。これに反し、政変のつど雲南から逃避したタイ山岳地帯の少数民族の中では豊富な資料を見つける事が出来た。その為、本書では史学的方法では雲南を、風俗習慣の上ではタイ少数民族を用いて日本と対比せざるを得なかった。しかし、この倭族論を立証するに十分であった。と述べている。しかし、残念なことにビルマ(ミャンマー)、ラオスでのフィールドワークはなされていない。
雲南と日本の共通性
では本書より後に出版された「中国南部少数民族誌」鈴木正宗著から、雲南と日本の共通性を細かくみていきたい。まず、稲作についてだが、柳田などによる稲作伝播ルートを挙げ、秦・漢帝国が成立し、支配を南方に伸ばした結果生じた、非・漢民族の移動により、焼畑、水稲の技術が日本へ伝わったとしている。
食の共通性 クズ・ワラビの根からでん粉をとる水さらし技法、茶の栽培と加工、麹を使う酒の醸造、納豆、コンニャク、あか米、もち、寿司の食用が挙げられる。
住の共通性
高床(倉)式の住居。材木を運搬するための技法など
神話・民話の共通性
天の岩戸型の日蝕神話、イザナギ・イザナミに似た兄妹始祖神話、洪水伝説、羽衣伝説、浦島太郎、かぐや姫、桃太郎など、数え挙げたらきりがない。
入墨、お歯黒、鵜飼のような習俗、山の神、精霊信仰などの祭り、凧揚げ、こま廻し、竹馬などの遊びにも類似点が多い。
確かに雲南と日本には共通性がある。歴史、生態、民族を通しての雲南や東南アジア、日本との比較研究はそれなりの成果を挙げてきたといえるだろう。しかし、文化的要素の一つ一つが如何に類似していたとしても、それぞれが各民族の間で有機的に存在し意味を与えられている以上、要素を個々の脈絡から切り離すことの限界は明らかである。筆者は、日本人も人間理解の幅を広げるため、相互共存、相互理解とは何かという命題をじっくり考えねばならない。と結んでいる。
起源
ラフ族はチベット高原を起源に何世紀も経て南下してきたと言われている。具体的には中国、ビルマ(ミャンマー)、ラオス、タイ、ベトナムに移住していった。 文献を紐解いてみよう。日中共同出版の「雲南の少数民族」によると、ラフ族は中国雲南省の少数民族の一つに数えられ(24の民族がある)ラフとは自称であり「ラ」とは虎の事で、「フ」とは火の側で香りが立ち昇るまで炙る事を指す。その為にラフ族は「虎狩り民族」と言われている。またラフ族は中国の古代羌人(きょうじん)の系統に属するとされ、ラフをはじめ幾つかの羌語族は「昆」「昆明」と称された。唐、宋代にラフ族は「南詔」「大理」封建領主政権の統治下に置かれた。10世紀以降、大規模な南下を行い次第に雲南へ。明、清代には大小の土司を通じて統治が強化された。とある。そしてラフ族には三つの支系がある。ラフナ(黒ラフ)、ラフシ(黄ラフ)、ラフプ(白ラフ)があり、旧中国にあってはロヘイ、クツオン、シャクツオンと称されていた。このグループは社会歴史、経済形態、言語、風俗習慣は基本的に一致し、方言がやや異なるだけである。もう一つの忘れてはならない支系が苦聡人である
自称 他称
グーツオ ヘイクツオン
ラフ ファンクツオン
しかし本書ではクツオン人はラフに含まないとされていた。
言語
ラフ語は、シナ=チベット語系チベット=ビルマ語族イ語支に属する。
歴史
「世界の民族と生活⑫」には次のように記されている。
ラフ族もアカ族も、もとはチベットに住んでいた民族で、非常に誇り高く優れた狩猟の腕を持っている事で知られる。長い間、中国人と戦った末、大半の人々はやむを得ずにビルマやタイへと移住していった。現在、中国と東南アジア諸国に住むラフ族の数は約30万人と推測されている。(本書は1981年発行)中国に住んでいるラフ族はアカ、リス、ヤオ族の村のすぐ側に村を造っている。昔からラフ族はケシを大量に栽培してきた。しかし、主として痛み止めや治療にアヘンを使っているアカ族とは対照的に、アヘン中毒に侵されているラフ族は非常に少ない。またラフ族は半定住の生活をしている。村の周囲の森林を焼き払って畑を作っているが、その土地に作物が出来なくなると村ごと別の場所に移動して新しい村を造る。中国との関係は本書にも記されている。中国政府は1953年にラフ族の自治区を設けた。それ以後、低地の人々との交流が盛んに行われる様になり、その結果ラフ族の間にも自然現象と結びついた様々な神に対する信仰が定着しつつある。との事である。資料を探すうちに面白い文献を見つけた。鳥越憲三郎の「原弥生人の渡来」である。本書では、古くは雲南に幾つもの倭族の王国があったとし、その倭族の興亡の歴史の中で倭族たちは各河川を通じて民族移動を繰り返した。と唱え、そして揚子江を下った一群の中から日本列島にまで渡来したのが弥生文化をもたらした倭人であった。という証明に取り組んでいる。その続編といえる文献も見つけることが出来た。「雲南からの道」~日本人のルーツを探る~である。雲南の少数民族と日本人の祖先が同じであるという新説を唱えている。(昭和58年発行)稲作を伴って日本列島に渡来した日本人は古くは倭人と呼ばれたが、その倭人の故郷は何処であったのだろうか?「史記」や「漢書」を紐解いてみると紀元前の揚子江上流域には漢民族とは異なる幾つもの倭人の国名がみられる(昆
明、夜郎など)。彼らは後に亡国の民として四散した。日本人と祖先を同じくし、文化的特性(稲作と高床式建物)を共有する彼らを「倭族」の名のもとに捉え、倭族が元は雲南の高原盆地に発祥したとみる。という新説である。 フィールドワークがなされたのは昭和58年で、筆者は次のように振り返っている。辺境の地であった雲南ではあるが、高度な中国文化の影響を受けて大きく変容し、ことに文化大革命によって倭族たちの風俗習慣は根こそぎに破壊されている。これに反し、政変のつど雲南から逃避したタイ山岳地帯の少数民族の中では豊富な資料を見つける事が出来た。その為、本書では史学的方法では雲南を、風俗習慣の上ではタイ少数民族を用いて日本と対比せざるを得なかった。しかし、この倭族論を立証するに十分であった。と述べている。しかし、残念なことにビルマ(ミャンマー)、ラオスでのフィールドワークはなされていない。
雲南と日本の共通性
では本書より後に出版された「中国南部少数民族誌」鈴木正宗著から、雲南と日本の共通性を細かくみていきたい。まず、稲作についてだが、柳田などによる稲作伝播ルートを挙げ、秦・漢帝国が成立し、支配を南方に伸ばした結果生じた、非・漢民族の移動により、焼畑、水稲の技術が日本へ伝わったとしている。
食の共通性 クズ・ワラビの根からでん粉をとる水さらし技法、茶の栽培と加工、麹を使う酒の醸造、納豆、コンニャク、あか米、もち、寿司の食用が挙げられる。
住の共通性
高床(倉)式の住居。材木を運搬するための技法など
神話・民話の共通性
天の岩戸型の日蝕神話、イザナギ・イザナミに似た兄妹始祖神話、洪水伝説、羽衣伝説、浦島太郎、かぐや姫、桃太郎など、数え挙げたらきりがない。
入墨、お歯黒、鵜飼のような習俗、山の神、精霊信仰などの祭り、凧揚げ、こま廻し、竹馬などの遊びにも類似点が多い。
確かに雲南と日本には共通性がある。歴史、生態、民族を通しての雲南や東南アジア、日本との比較研究はそれなりの成果を挙げてきたといえるだろう。しかし、文化的要素の一つ一つが如何に類似していたとしても、それぞれが各民族の間で有機的に存在し意味を与えられている以上、要素を個々の脈絡から切り離すことの限界は明らかである。筆者は、日本人も人間理解の幅を広げるため、相互共存、相互理解とは何かという命題をじっくり考えねばならない。と結んでいる。