ゾンビーズ
『ガリンペイロのすべての若き野郎ども』
FMたまん(76.3MHz)毎週水曜21時から55分間の生放送!
人生は、ままならないものであります。
今夜は!
「ゾンビーズ」の68年のアルバム
「オデッセイ・アンド・オラクル」を紹介します。
61年に結成したゾンビーズは、64年にデッカからデビューし、
「シーズ・ノット・ゼア」や「テル・ハー・ノー」等、ヒット曲を生みました。
本国イギリスよりも、チャート順位を見る限りでは米国人気が勝っています。
日本においては、カーナビーツが、ゾンビーズの「アイ・ラブ・ユー」を
「好きさ 好きさ 好きさ」と日本語で歌い、大ヒットしました。
そんな人気バンドのひとつでしたが、急速に進化し変化するロック・シーンに対応できず
66年にはヒットも出せなくなり、デッカは再契約せず。
そこで、英国にオフィスを開いたばかりのCBSレコードが契約を申し出てレコーディングをすることになります。
ビートルズが「サージェント・・・」を終えたばかりのアビイ・ロード・スタジオで、
ジョージ・マーティンのスタッフ・エンジニアでもあった、ピーター・ビンスとジェフ・エメリックが担当しています。
ゾンビーズのソングライティングは、キーボードのロッド・アージェントとベースのクリス・ホワイトの2人。
サマー・オブ・ラブの時代の気分を吸い込んだ、メロトロンなんかも使ってソフト・サイケ調の曲をレコーディング。
しかし、第一弾シングル「フレンズ・オブ・マイン / ビーチウッド・パーク」
67年9月にリリースするも不発(両面ホワイト作)
続いて67年11月に「独房44 / 彼去りし後は」(A面アージェント作)を
リリースするも不発に終わっています。
せめて、レコーディングに入った6月から、数週間後に第一弾シングルを出せていれば、状況は違ったかもしれません。
楽曲印税もあるアージェントとクリス以外のメンバー、
特にボーカルのコリン・ブランストーンとギターのアトキンソンは、この不発を受け、バンドを抜けています。
音楽を辞めて働き始めました。
しかし、CBSとのアルバム制作の契約があるため、アージェントとクリスはアビイ・ロードでのレコーディンングをまとめて本作をリリースしました。
アルバムを出したものの、もうゾンビーズは存在しないという状況でプロモーションもできず、
さらに英国はブリティッシュ・ブルース・ロックがブームとして台頭。
サイケ・サウンドは過去のものとなっていたのです。英国では本アルバムも不発に終わりました。
ではなぜ?本作が60年代の気分を含んだ名盤として世に残っているのでしょうか?
アメリカCBSでのリリースが見送られていた本作。
アル・クーパーは英国CBSから40枚ほどのアルバムを聴いて欲しいと手渡されました。
その中にあったゾンビーズの本作に強烈なインパクトを感じて、米国でのリリースを進言しています。
アル・クーパーの言葉を受けて、米国CBSは本作からシングルをリリース。
第二弾の「二人のシーズン」が全米3位の大ヒットとなり、アルバムもチャートに食い込みました。
ですが、すでにゾンビーズは存在していません。
そこにゾンビーズを名乗る偽物バンドが出現し、一晩7万4000ドルでツアーを行うという珍事件も起きています。
まさにゾンビなエピソードであります。
今週も宜しくお願いいたします。
FMたまん(76.3MHz)毎週水曜21時から55分間の生放送!
人生は、ままならないものであります。
今夜は!
「ゾンビーズ」の68年のアルバム
「オデッセイ・アンド・オラクル」を紹介します。
61年に結成したゾンビーズは、64年にデッカからデビューし、
「シーズ・ノット・ゼア」や「テル・ハー・ノー」等、ヒット曲を生みました。
本国イギリスよりも、チャート順位を見る限りでは米国人気が勝っています。
日本においては、カーナビーツが、ゾンビーズの「アイ・ラブ・ユー」を
「好きさ 好きさ 好きさ」と日本語で歌い、大ヒットしました。
そんな人気バンドのひとつでしたが、急速に進化し変化するロック・シーンに対応できず
66年にはヒットも出せなくなり、デッカは再契約せず。
そこで、英国にオフィスを開いたばかりのCBSレコードが契約を申し出てレコーディングをすることになります。
ビートルズが「サージェント・・・」を終えたばかりのアビイ・ロード・スタジオで、
ジョージ・マーティンのスタッフ・エンジニアでもあった、ピーター・ビンスとジェフ・エメリックが担当しています。
ゾンビーズのソングライティングは、キーボードのロッド・アージェントとベースのクリス・ホワイトの2人。
サマー・オブ・ラブの時代の気分を吸い込んだ、メロトロンなんかも使ってソフト・サイケ調の曲をレコーディング。
しかし、第一弾シングル「フレンズ・オブ・マイン / ビーチウッド・パーク」
67年9月にリリースするも不発(両面ホワイト作)
続いて67年11月に「独房44 / 彼去りし後は」(A面アージェント作)を
リリースするも不発に終わっています。
せめて、レコーディングに入った6月から、数週間後に第一弾シングルを出せていれば、状況は違ったかもしれません。
楽曲印税もあるアージェントとクリス以外のメンバー、
特にボーカルのコリン・ブランストーンとギターのアトキンソンは、この不発を受け、バンドを抜けています。
音楽を辞めて働き始めました。
しかし、CBSとのアルバム制作の契約があるため、アージェントとクリスはアビイ・ロードでのレコーディンングをまとめて本作をリリースしました。
アルバムを出したものの、もうゾンビーズは存在しないという状況でプロモーションもできず、
さらに英国はブリティッシュ・ブルース・ロックがブームとして台頭。
サイケ・サウンドは過去のものとなっていたのです。英国では本アルバムも不発に終わりました。
ではなぜ?本作が60年代の気分を含んだ名盤として世に残っているのでしょうか?
アメリカCBSでのリリースが見送られていた本作。
アル・クーパーは英国CBSから40枚ほどのアルバムを聴いて欲しいと手渡されました。
その中にあったゾンビーズの本作に強烈なインパクトを感じて、米国でのリリースを進言しています。
アル・クーパーの言葉を受けて、米国CBSは本作からシングルをリリース。
第二弾の「二人のシーズン」が全米3位の大ヒットとなり、アルバムもチャートに食い込みました。
ですが、すでにゾンビーズは存在していません。
そこにゾンビーズを名乗る偽物バンドが出現し、一晩7万4000ドルでツアーを行うという珍事件も起きています。
まさにゾンビなエピソードであります。
今週も宜しくお願いいたします。